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「大宮島」と呼ばれた時代へ──グアムの戦跡を巡り歴史をたどる旅

大宮島と呼ばれた時代へ──グアムの戦跡を巡り歴史をたどる旅

 

青い海と白い砂浜で知られるリゾート地・グアム。

ショッピングやビーチリゾートを目的に訪れる旅行者が多い一方で、島にはあまり知られていない“もうひとつの顔”があります。

それは、かつてグアムが日本に占領され「大宮島(おおみやじま)」と呼ばれていた時代。第二次世界大戦中、約2年半にわたる占領と激戦の舞台となり、現在も島内各地に戦跡や戦争遺跡が残されています。

観光ガイドにはあまり大きく紹介されないものの、これらのスポットを巡ることは「グアム旅行」をぐっと深めてくれる特別な体験です。

本記事では、大宮島改名の背景から米軍上陸の現場、残された史跡まで、歴史を辿る旅をご紹介します。

 

 

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なぜグアムは「大宮島」と呼ばれたのか?

 

ここでは、グアムが「大宮島」と呼ばれるに至った経緯と、占領下で進められた日本化政策について解説します。

島の人々の生活がどのように変わったのかを知ることで、その後の戦跡が持つ意味をより深く理解できます。

 

1941年の占領と改名

1941年12月、日本軍は真珠湾攻撃とほぼ同時にグアムへ侵攻し、わずか数日で島を占領しました。

占領後、グアムは「大宮島」と改名されます。これは「偉大な神社の島」を意味するとされ、日本の国威を示す象徴的な呼称でした。

当時の記録によると、約6,000人の日本兵が進駐し、公共施設や教会、大聖堂に駐留。グアムの暮らしは急速に軍事色に染められていきました。

 

日本化政策 ― 教育・通貨・文化の変化

占領下のグアムでは、日本式の生活様式が強制されました。

 

通貨
米ドルから日本円に切り替えられ、島の経済は一変。

文化
道端で兵士に会えば必ずお辞儀をするよう強要され、違反すると殴打や罰を受けました。ハガニア(現在の首都)では「日本精神」を広める集会やパレードが開催され、チャモロ人は否応なく参加させられました。

教育
学校は再開されましたが、日本語と日本の習慣を学ぶことが義務付けられ、英語とチャモロ語は禁止。小中学生だけでなく大人までが対象でした。

 

この時代の「日本化政策」は、グアムの歴史に大きな影響を残しました。

 

占領下で暮らすチャモロ人

 

初期の占領時、チャモロ人は農業や教会活動を続けられましたが、外出には通行許可証(通称「犬の札」)が必要で、ラジオやカメラは没収。夜間外出も禁じられ、自由は大きく制限されていました。

1944年に入ると戦況が悪化し、島は一気に緊迫します。日本軍は兵士数を18,500人に増強し、住民に対しても支配を強めました。

 

強制労働
男性は飛行場や防衛施設建設へ、女性や子供は食料生産へ動員されました。

食糧不足
住民の食料は徴発され、飢えが広がりました。

残虐行為
暴力や虐殺も相次ぎ、住民の恐怖は頂点に達しました。

強制収容
1944年7月には、約18,000人がマネンゴン収容所などへ移され、過酷な環境で終戦を迎えることになります。

 

グアム・アプラ湾周辺に残る戦跡

アプラ湾は戦時中、戦略的に非常に重要な場所でした。現在もこの周辺には、日本軍や米軍の拠点が置かれた痕跡が残されています。

観光で訪れやすい史跡が多く、グアムの戦争遺跡を巡る旅の目的地となるでしょう。

 

ピティ・ガンズ:発射されなかった大砲

 

アプラ湾を見下ろす丘の遊歩道を歩くと、3基の巨大な沿岸砲「ピティ・ガンズ」が現れます。これは米軍上陸を阻止するために設置されたものでしたが、実戦で発射されることはありませんでした。

現在は整備されたトレイルで誰でも訪れることができ、グアム戦跡観光の定番スポットとなっています。錆びた砲身は、当時の緊張感と戦争の虚しさを象徴する存在です。

 

 

フォンテ台地(Fonte Plateau Unit):通信壕とニミッツ司令部

 

丘陵地帯のフォンテ台地には、日本軍の通信壕跡が残っています。ここは占領時代、日本の重要な通信拠点でした。

戦後は米軍のニミッツ提督の前線司令部として利用され、日米両軍の拠点が同じ場所に存在したという特異な歴史を物語ります。

壕の入り口はコンクリート製のアーチ構造で、戦跡好きの旅行者に人気の撮影スポットでもあります。

 

 

旧スマイ(Sumay):帰れなかった港町

 

かつて繁栄していた港町スマイは、日本軍に接収され、住民は追い出されました。戦後もこの地域は米軍基地となり、元住民は戻れませんでした。

今もスマイの物語は、「故郷を奪われた記憶」として語り継がれています。

 

米軍上陸の地を歩く ― グアム戦跡観光の見どころ

1944年7月21日、アメリカ軍は日本に占領されていたグアムを奪還するため、島の西側から上陸作戦を開始しました。

作戦は北のアサン湾と南のアガット湾の二正面で展開され、米兵数万人が一斉に砂浜へ上陸しました。

この作戦は「グアムの戦い」として知られ、わずか数週間で日本軍は壊滅。

島は再びアメリカの支配下に戻りました。現在、上陸地点は「太平洋戦争国立歴史公園」の一部として整備され、当時の痕跡を間近に見ることができます。戦跡観光の中心ともいえるエリアです。

 

アサン・ベイ・オーバールック(アサン展望台) ― 島全体を見渡す展望地

 

アサン湾を高台から見下ろせる展望所。眼下に広がる穏やかな海を眺めながら、かつてここで数千人の兵士が上陸したことを想像すると、歴史の重みを感じます。

ここには「慰霊の壁(Memorial Wall)」があり、米兵だけでなく戦争に巻き込まれたチャモロ人の名前も刻まれています。観光客は静かにその前に立ち、平和を祈るひとときを過ごすのが定番です。

 

 

アサン・ビーチ ― 戦跡とリゾートが重なる場所

 

白い砂浜が広がるアサン・ビーチは、リゾートとして人気がある一方で、かつての激戦地でもあります。

日本軍は海岸線に沿ってコンクリート製のトーチカ(ピルボックス)や塹壕を築き、米軍の上陸を迎え撃ちました。

現在もその跡が点在しており、穏やかなビーチを散策しながら戦跡に触れることができます。リゾート気分で歩きながら、砂浜の下に眠る歴史を感じられるのは、グアム戦跡観光ならではの体験です。

 

アガット・ユニット(ガアン・ポイント) ― 激戦の記憶を残す南側の上陸地

 

南側の上陸地点がアガット。特にガアン・ポイント周辺は激しい戦闘が展開された場所で、日本軍の砲台跡や防御陣地が今も残されています。

海に向かって並ぶ大砲は、当時の緊張感をそのまま伝える生々しい存在です。

このエリアは広い芝生の公園として整備され、地元の人々がピクニックを楽しむ場所にもなっています。観光客にとっては「平和な日常」と「戦争の記憶」が同居する不思議な空間です。

 

 

上陸地を巡る旅が伝えること

アサンとアガットの二つの上陸地を巡ることで、当時の作戦規模の大きさや、そこで命を落とした兵士や住民の犠牲を実感できます。

これらの場所は、単なる観光スポットではなく、平和の尊さを考える“野外博物館”のような存在です。

 

「大宮島」の記憶が伝えるもの

 

グアムが「大宮島」と呼ばれていた時代は、単なる歴史の一幕ではなく、島の人々にとって忘れることのできない記憶です。

戦跡や記念行事を通じて、この記憶は今も現代に語り継がれています。ここでは、その具体的な伝えられ方と、旅行者がそこから学べることを見ていきましょう。

 

戦争遺跡としての価値と保存活動

グアム各地に点在する戦跡は、アメリカの国立公園局によって「太平洋戦争国立歴史公園」として保護・管理されています。

アサン、アガット、フォンテ台地、ピティ・ガンズといったユニットは整備され、訪れる人々が当時の歴史を学べるよう案内板や展示が用意されています。

また、地元の住民団体や歴史研究家によっても保存活動が続けられています。荒廃した戦跡の修復や案内ツアーの実施は、単なる観光資源としてではなく、「平和を学ぶ教材」としての意義を強調しています。

 

リベレーション・デー ― 解放を祝う記念日

1944年7月21日に米軍が上陸し、日本の占領が終わった日。この日は「リバレーションデー(解放記念日)」として、グアム最大の祝日となっています。

毎年7月には、首都ハガニアで大規模なパレードが行われ、地元住民や観光客が沿道に集まり盛大に祝います。戦争体験者の高齢化が進む中、パレードは若い世代へ記憶を伝える重要な場となっています。

旅行者にとっても、このイベントに参加することで「戦争の終結が持つ意味」を肌で感じられるでしょう。

 

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チャモロ人が語り継ぐ記憶

戦時下のチャモロ人は、強制労働や食糧不足、暴力によって大きな苦しみを味わいました。さらに故郷を奪われ、戦後も戻れなかった人々もいます。

これらの記憶は、家族の語りや地域の物語として受け継がれてきました。

例えば「祖父母が夜間外出禁止で隠れて祈った話」「収容所で過ごした幼少期の思い出」など、個人の体験談は史実以上に生々しく、訪れる人々に強く響きます。

グアムの歴史博物館や地元コミュニティの展示では、そうした声を直接知ることができます。

 

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戦跡が現代の旅行者に問いかけるもの

これらの記憶に触れると、旅行者は「リゾート地グアム」のイメージを超えた視点を得られます。

ピルボックスや収容所跡に立つとき、そこは単なる遺跡ではなく、「なぜ戦争は起きたのか」「どうすれば平和を守れるのか」という普遍的な問いを投げかけてきます。

戦跡を訪ねることは観光にとどまらず、歴史教育や平和学習としての価値を持っています。美しい自然と戦争の記憶、この二つが共存するグアムだからこそ、旅行者は特別な気づきを持ち帰ることができるのです。

 

まとめ

 

グアムが「大宮島」と呼ばれた時代は、チャモロの人々にとって苦難と試練の歴史でした。

今も残るグアムの戦跡や戦争遺跡を巡ることは、美しい海に隠されたもうひとつの物語を知る旅です。

ビーチやショッピングの合間に戦跡を訪れれば、旅行はぐっと深みを増し、「平和を考える歴史観光」となります。次回のグアム旅行では、ぜひ戦跡めぐりを行程に加えてみてください。

 

参考情報

Imperial Japanese Occupation of Guam (1941-1944) – War In The Pacific National Historical Park (U.S. National Park Service)

 

 

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