GLAM Editorial

【GLAMなオトコ】Vol.27 パラアスリート界に現れた異色の新星。井谷俊介が語るパラスポーツの可能性とは?

Q. 井谷選手は昨年10月のアジアパラ競技会で記録を更新されました。競技との出会いはどんな形だったのでしょうか?

2016年の2月、大学2年生の時にバイク事故にあって、4日間意識不明の状態だったんです。意識が戻ったときはまだ右脚はあったのですが、壊死が進んでいて、結局事故から10日後に切断することになりました。そこから義足を履いての生活になったのですが、最初は義足で生活をするための知識が全くない状態で。そんな中で母親が、三重県にある「大和鉄脚走行会」という義足の人たちが集まるランニングコミュニティを見つけて来てくれたんです。それで事故から2カ月後に、まずはそこに走るとかは関係なく、義足で生活する上での知識を聞きにいこうということで行ってみたんです。

Q. 実際にその場に行って、どんな話をされたんですか。

単純に「お風呂入るときはこうすると便利だよ」とか「家の中ではこういう風にすると楽だよ」とかそういうことを教えてもらっていたんですが、その場で子供たちがすごく楽しそうに走っていたんです。それを見ていたら、たまたまその時ジョギング用の義足を借りられて、自分でもそれをつけて走ってみたんです。そうしたら、走るだけで本当に楽しくて。まるですごく面白いゲームをしているかのような、本当にそんな気分になったんです。走って“風を切る”感覚も感じられた。義足になってからは、「走る」とか「風を感じる」ということから無縁の状態だったので、それが凄く新鮮でした。いままであんなに簡単にやっていた「走る」ということが、こんなに幸せで楽しいのかと。

Q. そこから競技にのめりこんでいったんですね。

やっぱり事故の後、たくさんの人を悲しませたり、笑顔を奪ってしまったことに対して、自分でも責任を感じていたんです。それが、その時走ってみたことで、母がすごく喜んでくれた。そこで、「もしこれでパラリンピックにでも出られたら、みんながもっと喜んでくれるんじゃないか」と思ったんです。

Q. 周りの方の笑顔が嬉しかったんですね。事故後に競技を始めるまで、気持ちの面で切り替えに時間はかからなかったのでしょうか。

あんまりなかったですね、本当に。悩んだのは2日間くらいです。足を切って、翌日の夜には「ダメだ、このままじゃ。もう下を向くのはやめよう」と決めたんです。というのも、家族やお見舞いに来てくれる友人が、当たり前ですけどすごくショックを受けるんですよ。誰も何も言葉が出ないし、僕も逆に何て言えばいいかもわからない。それが本当に辛かった。もう、病室が真っ暗でしたね。「電気ついているんかな」と思うくらいに雰囲気が暗くて。それで自分の方がもう、それに耐えられなくなってきちゃって。

で、「なんでみんながこんなに落ち込むんだろう」って考えたんですよ。それはまず、僕がいまこうなっているから。僕が落ち込んでいるから、みんなの笑顔を奪っている。そう考えると、やっぱり僕が元気に、前向きにしていくことが大事。みんなの前で自分が笑顔を見せることで、みんなの笑顔も取り戻せるんじゃないかと。義足で、リハビリして、走る。それだけでも、挑戦する姿を見せることで、みんなにも喜んでもらえる。そういう想いがあったんで、手術が終わって2日目の夜には「もうクヨクヨするのはやめよう」と思ったんです。

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